毎度、お世話様です。
精密仕切り、オリジナル仕切り 脳トレ仕切りのプロショップ
福益工業所(フクマスコウギョウショ)の白井です。
組合の機関紙に寄稿した、若いころの思い出を載せました。
少し長いので2回に分けました。
では、後編です。
こんな親父でしたが、最後は見事でした。忘れもしません。
平成七年元旦、除夜の鐘と共に氏神の羽田八幡様へ、お袋を伴い初詣に行きました。
そこは、親父とお袋が結婚式を挙げ、親父が若いころは、
羽田祭りで手筒花火を揚げた思い出も縁も深いお宮さんです。
そこで、宮司さんやお世話になった方々と新年の挨拶を交わしました。

羽田八幡宮、実は箱屋もここで27年前結婚式を挙げました。親子二代同じところで結婚式を挙げるのは今では無いでしょうね!
それは、恐らく皆さんと最後のお別れをし、青春の輝かしい思い出を脳裏に焼き付けに行ったのだと思います。
そして朝を迎え、家族と新年の挨拶を交わし、一月一日の夕方吐血しあっと言う間に他界しました。
享年六一歳でした。
生前は、口うるさい親父と思っていましたが、突然いなくなると
もっと話を聞いておけば良かったと思う事ばかりです。
他界する前、年末年始の休みに入る少し前、
ステッチャー(大型のホッチキス)の修理の仕方で色々話をしました。
昔の人なので、簡単な修理は自分で出来たのですね。
そう言った事を沢山聞いておけず残念な思いで一杯でした。

50周年の記念で作ったテレホンカードより。前列左から二人目が親父。中央の眼鏡が創業社長の祖父です。
親父が亡くなり、社長を継いだ頃は、ほとんどの従業員が私を生まれた時から知っている人ばかりで、
歳下は弟だけと言う大変やりにくい環境でした。
あれから早いもので一七年経ちました。
いい時も悪い時も有り、もう駄目かと本気で思うような時も有りましたが、今日まで続いてこれたのも、
一重にお客様のお陰、従業員のお陰、そして私を陰から支えてくれた古女房の頑張りが有ったからこそと
心より感謝しております。私も五二歳になり、親父の歳まで生きても後九年と思うと、
感慨深いものが有りますが、注文を出して下さるお客様が有る限り、頑張って行こうと改めて思う、
今日このごろです。
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